第1章:M&Aと基本合意契約の概要
1.1 M&Aにおける基本合意契約の位置づけ
M&A(Mergers and Acquisitions、合併・買収)は、企業が成長戦略や事業再編、事業承継、シナジー獲得などを目的として行う重要な戦略的取引です。このM&Aのプロセスには、一般的に以下のような段階があります。
- 情報収集・検討フェーズ
- M&Aの目的や方針を決定し、潜在的な候補先のリストアップなどを行う段階。
- アプローチ・初期交渉フェーズ
- 売り手・買い手がお互いに接触し、取引の可能性や大枠を検討する。NDA(秘密保持契約)を締結することも多い。
- 基本合意(LOI)締結フェーズ
- 取引を進める意思を確認し、取引の大枠となる条件(条件付きの場合も多い)を文書化する。
- デューデリジェンス(DD)フェーズ
- 財務、税務、法務、人事、ITなど、対象会社の詳細な調査を行う。
- 最終契約書(Definitive Agreement)締結フェーズ
- 売買契約書や株式譲渡契約書、合併契約書など最終的に法的拘束力をもつ契約を締結。
- クロージング(Closing)
- 対価の支払い、株式・事業の譲渡、各種手続き・届出などを完了し、取引が実行される。
- 統合作業(PMI:Post Merger Integration)
- 経営統合やシステム統合、人事制度の統合など、買収後のシナジーを最大化するための取り組みを行う。
この流れの中で、「基本合意契約(LOI)」 は3番目に位置する重要な段階です。両者が「取引を進めたい」という合意を形成し、かつ「取引の条件を大まかに確認しておきたい」という場合に結ばれることが多く、一般には以下のような役割を担います。
- 交渉継続の意思表明
M&A取引の大枠について、両当事者が一定の合意に達していることを示す。 - デューデリジェンスの前提条件の明確化
取引の仮定条件や前提となる経営情報の提供範囲等を整理し、デューデリジェンスの計画を立てやすくする。 - 独占交渉権(排他交渉権)の付与(場合による)
一定期間、他の第三者との交渉を制限し、M&A交渉を安定的に進めるための仕組み。 - 秘密保持や相互協力の規定
当事者間での情報の取り扱いや共同作業のルールを定める。 - 最終契約までのスケジュール感の明確化
いつまでにデューデリジェンスを終え、いつまでに最終契約書を結ぶかなど、具体的な進行計画を示す。
ただし、「基本合意契約」といっても、実際の法的拘束力 はどこまで強いのか、各条項が「拘束的(binding)」か「非拘束的(non-binding)」かについては十分注意が必要です。基本合意契約の中に、排他交渉義務や秘密保持義務、損害賠償責任などを定めることは多々あります。しかし、売買金額や取引条件などの「最終的な権利義務」についてまでは、一般に拘束力が及ばないことが多く、**「(仮)合意」**という性質を理解することが大切です。
第2章:基本合意契約の目的と意義
2.1 交渉を一段先に進めるための足がかり
M&Aは、高額な取引となることが多く、また対象会社の財務・税務・法務・人事・IT・経営状況など、多角的な検討が必要です。デューデリジェンスには多くのリソースが必要となるため、最終契約に向けた**「一定の目処」**を確認しておくことは双方にメリットがあります。ここで、基本合意契約によって
- 売り手(ターゲット企業の株主や経営陣)は「取引の方向性」や「大まかな価格レンジ」を確認できる
- 買い手(出資者や取得会社)は「対象会社の現状把握」や「デューデリジェンスのための協力義務」を確保できる
といった形で、相互に一定の安心感を得たうえで次のステップに進めます。
2.2 トラブル回避と費用対効果
基本合意契約を締結せずにいきなり詳細なデューデリジェンスを開始してしまうと、実際に大掛かりな調査を進めた結果、最終的に条件面で折り合わず交渉が破談になったり、あるいは他社が横取りする形で取引が白紙になったりするリスクが高まります。
- 費用対効果
買い手にとっては、デューデリジェンスには専門家費用や社内リソースの投入が不可欠であり、初期段階で「(大枠では)合意している」という安心感がなければ踏み切りにくい。 - 情報流出リスクのコントロール
売り手にとっては、経営上の機密情報を大量に開示した結果、交渉が破談となった際に情報漏洩リスクを抱える。情報の開示範囲や秘密保持義務などを明確にしておくことで、トラブルを避けやすくなる。
したがって、基本合意契約を締結することで「一定の心理的・実務的安心感」を相互に得て、デューデリジェンスや契約締結のための具体的な作業を進める土台を作る、これが主な意義です。
2.3 取引条件の「骨子」を文書化する意味
M&A交渉が進むにつれ、口頭やメールでのやり取りが増えますが、「売買価格は概算○○億円と考えている」「支払いは○○月末頃を予定」「株式譲渡なのか事業譲渡なのかで迷っている」など、さまざまな論点が現れます。これらを整理せずに放置すると、後で齟齬(そご)が生じた際に**「言った・言わない」のトラブル**につながりかねません。
基本合意契約の段階で、**「売買形態」「おおよその評価額」「取引スキーム」「支払方法」**などの骨子を文書化しておけば、将来的に「初期合意とのズレ」に気づきやすくなり、交渉がスムーズに進む可能性が高まります。
第3章:基本合意契約の典型的な構成要素
以下では、M&Aにおける基本合意契約がどのような項目で構成されることが多いかを、典型的な例を挙げて説明します。実際には、取引規模や業種、当事者の希望などによりカスタマイズされるため、下記の項目がすべて入るとは限りませんが、参考として概観しておきます。
3.1 前文(Recitals)
前文(Recitals) では、契約当事者(売り手、買い手など)の名称や住所、企業概要などを列挙したうえで、基本合意契約を締結する理由や背景を簡潔に示すことが多いです。たとえば、
- 売り手側:事業承継の一環として株式を譲渡し、経営を外部に託したい意向
- 買い手側:当該事業を取得することで事業拡大やシナジーを狙う意向
といったことが書かれ、「両者が合意してこの基本合意書を締結するに至った」という文言で締めくくるのが一般的です。
3.2 取引の目的・範囲
取引の目的や範囲 を明確にする条項です。たとえば「株式譲渡による経営権の取得」なのか、「事業譲渡(営業譲渡)による特定の事業部門の取得」なのか、それとも「合併・分割」などの形態を想定しているのかが記載されます。また、「取得対象は○○社の発行済株式の100%である」など、対象となる具体的な範囲も示すことが多いです。
3.3 売買価格および計算方法(Price and Consideration)
売買価格(またはその算定方法) は、M&Aにおける中心的な交渉事項のひとつです。ただし、基本合意契約の段階では「確定価格」でなく、「概算価格」や「評価レンジ」を記載するにとどまる場合が多いです。理由としては、デューデリジェンスを経ることで初めて正確な企業価値が分かるケースが多いからです。
- 買収価格の目安(○○億円〜○○億円)
- 純資産の調整方式(Closing時点の純資産額に応じて調整を行うなど)
- アーンアウト条項(事後の業績達成に応じて追加対価を支払う) の可能性
などが示されることがあります。ただし基本合意段階では、最終的に法的拘束力のある価格決定とまではいかず、「売り手・買い手の意向」をすり合わせる程度にとどめるのが一般的です。
3.4 スケジュール(Timeline)
取引遂行のスケジュール が示される場合も多いです。具体的には、
- デューデリジェンス開始日および終了予定時期
- 最終契約(Definitive Agreement)の締結予定時期
- クロージングの予定時期
などが定められ、両当事者がスムーズにタスクをこなせるように合意します。ただし、これはあくまで「目標的な」スケジュールであることも多く、実際にはデューデリジェンスの結果や規制当局の許認可手続きなどによって変動します。
3.5 デューデリジェンス(Due Diligence)に関する取り決め
デューデリジェンス は、M&Aにおいて買い手がターゲット企業のリスク・価値を適正に評価するために必要不可欠です。そのため、基本合意契約には以下のような点が定められることがあります。
- 情報提供の範囲と方法
どの部署のどのレベルの情報まで開示するか、経営陣や主要社員へのインタビューを実施するかなど。 - 秘密保持義務
共有された資料や情報を第三者に開示してはならない、あるいはデューデリジェンス以外の目的で使用してはならない等。 - 協力義務
買い手が必要とする情報へのアクセスや資料収集について、売り手が誠実に協力すること。 - スケジュール管理
デューデリジェンス期間や最終レポートの提出時期など。
3.6 排他交渉義務(Exclusivity Clause)
排他交渉義務とは、売り手が一定期間、他の第三者と並行してM&A交渉を進めない という取り決めを指します。買い手が「自社のリソースを割いてデューデリジェンスを行う以上、他社に売られるリスクを極力避けたい」という考えから要求されることが多いです。
排他交渉義務を定めるかどうかは交渉上の大きな争点になり得ます。売り手の立場からは、「並行して複数の買い手と交渉する方がより有利な条件を引き出せる可能性があるため、排他交渉には消極的」という場合もある一方で、排他交渉義務を認める代わりに「買い手から一定のデポジット(手付金)を受領する」などの取引条件を得ることもあります。
3.7 秘密保持義務(Confidentiality Clause)
秘密保持義務 は、ほぼすべてのM&A交渉において極めて重要です。既にNDA(秘密保持契約)を交わしている場合でも、基本合意契約の中で改めて、あるいは追加的に、秘密保持の範囲や期間を定めるケースが多いです。
- 秘密情報の定義
どの範囲を秘密情報とみなすか(会計資料、契約内容、人事情報など)。 - 例外事項
すでに公知の情報や、合法的に第三者から入手した情報などは秘密情報に含まれない場合が多い。 - 秘密情報の管理方法
閲覧可能者の限定、複製や持ち出しの制限など。 - 契約終了後の取り扱い
交渉が破談した場合に秘密情報を返還または破棄する義務など。
3.8 交渉過程・その他事項の非拘束性
本契約(LOI)は法的拘束力を有するものではなく、最終契約に向けた仮の合意である という文言を明示することがよくあります。これは、基本合意契約があくまで「正式契約を締結するまでの大枠合意」であり、最終契約が締結されるまで当事者に売買や合併等の義務が生じるわけではない という点を確認するものです。
ただし、秘密保持義務や排他交渉義務など「拘束的条項」として明示的に定められているものについては、当然ながら法的拘束力があります。一般に、基本合意書やLOIには、
- 「拘束力を持たない条項(Non-binding provisions)」
- 「拘束力を持つ条項(Binding provisions)」
を分けて記載したり、“This Letter of Intent is non-binding except for the provisions on confidentiality, exclusivity, governing law, and dispute resolution.” のような形で明確化します。
3.9 損害賠償責任・免責条項(Liability)
基本合意契約の段階では、当事者が最終的に取引を成立させる義務を負わない という趣旨が多くの場合明記されます。もっとも、秘密保持違反や排他交渉義務違反などについては、相手方に損害を与えた場合に損害賠償義務を負う可能性があるため、その範囲や責任の上限を定める条項を置くことがあります。
3.10 準拠法と紛争解決方法(Governing Law and Dispute Resolution)
M&A取引は、国境を越えたクロスボーダーM&Aの場合もあれば、国内取引の場合でも当事者が複数地域にまたがる可能性があります。どの国・地域の法律を準拠法とするか、紛争が生じた場合にはどの裁判所(あるいは仲裁機関)で解決を図るのか、あらかじめ定めておくのが一般的です。
- 準拠法
通常、ターゲット企業の所在地国の法令を選ぶことが多いが、英米法やシンガポール法を選択するケースもある。 - 紛争解決方法
東京地方裁判所管轄とする、ICC国際仲裁(International Chamber of Commerce)で解決する、など。
第4章:基本合意契約における法的拘束力とリスク
4.1 「非拘束的(Non-binding)」の限界
基本合意契約は「非拘束的」とされる部分が多いですが、すべてが完全に「拘束力ゼロ」になるわけではない ことに注意が必要です。むしろ、
- 秘密保持義務
- 排他交渉義務
- デューデリジェンスへの協力義務
- 準拠法・管轄
- 契約の存続期間
- 損害賠償に関する取り決め
などの条項については、通常の契約と同様に法的拘束力が生じます。違反があれば相手方から責任を追及される可能性があるため、「基本合意はあくまで仮の合意だから大丈夫」という安易な認識は禁物 です。
また、民法上の「信義則」や「契約上の誠実協議義務」 といった一般原則から、交渉の進め方に一定の制限が生じる場合も考えられます。とくに、日本法を準拠法とする契約では、当事者が相手方を不必要に翻弄したり、不誠実な交渉態度をとったりすると、損害賠償責任を問われるリスクも理論上は存在します。
4.2 不当破談リスク
デューデリジェンスの結果、買い手が大きなリスクを発見したり、売り手の提示条件と折り合わなかったりして交渉が決裂することは当然あり得ます。しかしながら、相手方に故意や重大な過失がある形で交渉を徒に引き延ばしたり、事実と異なる説明をし続けていたりすると、相手方から「不誠実交渉」や「詐欺的行為」 を主張されるリスクも否定できません。そうしたリスクを避けるためにも、基本合意契約を締結する際には、相手方と共通認識を十分に持ち、誠実に交渉を進める ことが重要です。
4.3 表明保証責任(Representations and Warranties)との関係
最終契約書(Definitive Agreement)では、売り手が対象会社の経営状況や負債、契約関係等に関して「表明保証(Representations and Warranties)」を行うことが一般的です。しかし、基本合意契約の段階で詳細な表明保証を求めることは通常はありません。あくまで、最終的な表明保証の範囲や内容は本契約締結時に確定 するのが通例です。
もっとも、基本合意契約においても、当事者に対して「重大な虚偽説明をしないこと」や「将来の見通しを合理的な根拠なく提示しないこと」などの誠実協議義務を設定するケースがあります。こうした条項に違反した場合、最終契約締結前でも損害賠償責任を問われる可能性はゼロではありません。
第5章:基本合意契約を締結する際の注意点
5.1 どこまで詳細にするかのバランス
基本合意契約は、最終契約に先立つ「大枠」の合意文書 であり、あまり細部まで詰めすぎるとデューデリジェンスの結果次第で修正が必要になり、修正作業が煩雑になるという問題があります。一方で、あまりにも抽象的すぎると、将来的な誤解やトラブルのもとになる可能性もあります。
- メリット
- ある程度詳細に定めることで「誤解・勘違い」を減らし、交渉がスムーズになる
- 交渉当事者の期待値を調整しやすい
- デメリット
- デューデリジェンス結果による修正が必要になりやすい
- 交渉に時間がかかり、タイミングを失う可能性がある
したがって、基本合意契約を作成する際は、「どの程度の精度・確度で文書化しておくか」を慎重に検討する必要があります。
5.2 Binding / Non-binding 条項の区別
前述のとおり、基本合意契約内には「拘束力を持つ条項」と「拘束力を持たない条項」が混在 します。実務上は、
- Non-binding Provisions
取引金額、最終的なスキーム、取引の実行義務など - Binding Provisions
秘密保持、排他交渉義務、準拠法・管轄など
という整理が一般的ですが、場合によっては買い手が「売却価格帯についても拘束力をもたせたい」と主張するケースや、逆に売り手が「価格面の拘束は避けたいが、スケジュール面は合意してほしい」と求めるケースもあります。自社の立場や戦略に応じて、拘束力をもたせる項目・もたせない項目をきちんと区別したうえで記載することが重要 です。
5.3 クロスボーダーM&Aの場合の留意点
クロスボーダーM&Aの場合、言語・商慣習・法制度が異なるため、基本合意契約の内容もさらに慎重に検討する必要があります。たとえば、
- 言語
英語で締結するのか、日本語・現地語で締結するのか。バイリンガル契約とする場合、どちらを正文とするか。 - 準拠法・紛争解決機関
どこの国の法律を準拠法とするのか、紛争時にどの国・地域の裁判所(または仲裁機関)で解決するのか。 - 文化的相違
海外の当事者は「基本合意でも法的拘束力が強い」と考えている場合があるため、日本的な「玉虫色の合意」が通用しないこともある。
また、クロスボーダーの場合は、外為法(外国為替及び外国貿易法) や業法規制(金融業、通信業、航空業などの外資規制)に関する手続きも視野に入れたうえで交渉を進める必要があり、基本合意契約でもこれらの留保事項を定めることが多いです。
5.4 当事者間の合意形成プロセス
基本合意契約を締結する前に、必ず**「NDA(秘密保持契約)を結んで情報交換を行う」** というフローを経る場合がほとんどです。NDAがない状態で企業機密情報を開示すると、競合他社への漏洩リスクが高まります。また、排他交渉義務の要否や違約金の設定など、各社の交渉方針によっては大きく条件が変わります。
- 社内承認フロー
企業規模やガバナンス体制に応じて、基本合意契約の締結には取締役会・株主総会決議が必要となる場合もある。 - 表明保証保険(R&W Insurance)の検討
海外では広く普及しているが、日本国内ではまだ限定的。保険を活用することで表明保証リスクをコントロールできる場合がある。
こうした事項を踏まえ、基本合意契約に至るまでのプロセスやタイミングを綿密に計画し、ステークホルダーの合意を得ながら進める ことが不可欠です。
第6章:基本合意契約締結後の流れ
6.1 デューデリジェンスの実施
基本合意契約が締結されると、買い手は本格的なデューデリジェンスを実施します。具体的には、以下のような分野を対象に調査が行われます。
- 財務・税務DD
- 過去の決算書、会計処理の妥当性、未払税金リスクなどを確認。
- 法務DD
- 契約書の内容、訴訟リスク、知的財産権、人事労務関連のリスクなど。
- ビジネスDD(Commercial DD)
- 市場環境、競合他社との比較、主要顧客・仕入先との取引関係など。
- 人事・組織DD
- キーパーソンの雇用契約、従業員の処遇やモチベーション管理など。
- IT・システムDD
- コアシステムの老朽化リスク、サイバーセキュリティ対策など。
これらの調査結果を踏まえて、最終契約書に盛り込むべき条項(表明保証、誓約、補償条項など)を検討し、最終的な売買価格やスキームの修正が行われることも珍しくありません。
6.2 最終契約書(Definitive Agreement)交渉
デューデリジェンス結果を踏まえ、最終契約書(株式譲渡契約書や合併契約書など)の作成・交渉 に入ります。最終契約書では、基本合意契約に比べて遥かに詳細な条項が規定されます。代表的な条項としては、
- 売買価格の最終決定方法
- 表明保証条項(Representations & Warranties)
- 誓約条項(Covenants)
- 補償(Indemnification)
- クロージング条件(Conditions Precedent)
- 契約解除条項(Termination)
- 違約金(Break-up Fee / Reverse Break-up Fee) など
また、競争法上の届け出や各種規制(外為法、業法など)の承認取得をクロージング条件とするケースもあります。
6.3 クロージングとPMI
最終契約書に合意すれば、所定の手続きを経てクロージング(取引実行) を行います。株式譲渡の場合は、株式が買い手に移転され、対価が売り手に支払われることにより取引が成立します。
クロージング後は、PMI(Post Merger Integration) と呼ばれる統合プロセスが始まります。買収側と被買収側(または合併双方)が組織、人事、システム、ブランド、企業文化などを統合し、想定していたシナジーを実現するための取り組みを行うことが必要です。
第7章:実務上のヒントと事例
7.1 事例1:中小企業の事業承継と基本合意契約
日本国内で多く見られるM&Aのパターンとして、中小企業のオーナーが後継者不在ゆえに事業承継目的で株式譲渡を検討するケースがあります。この場合、買い手は中堅企業やファンドであることが多いです。
基本合意契約のポイント
- 売り手オーナーの役員退任タイミング
承継後すぐに退任するのか、一定期間顧問として残るのか。 - 従業員の雇用維持
地域貢献や雇用維持が前提条件となる場合もあり、それを基本合意に盛り込むことがある。 - 企業秘密の管理
同業他社への売却を嫌い、排他交渉義務を強く求める場合もある。
事業承継型のM&Aは、オーナー個人の思い入れや従業員の待遇も重視されるケースが多く、価格以外の要素が交渉の焦点となることもしばしばです。
7.2 事例2:スタートアップのEXITと基本合意契約
IT系スタートアップなどは、アーリーステージから既にVCやエンジェル投資家が入っていることが多いです。EXIT(株式譲渡やIPO)を前提にしている場合、M&Aによる売却では、
- 買い手が新規事業や技術の獲得を目的
- スタートアップ創業者・投資家がキャピタルゲインを狙う
というWin-Win関係が成り立ち得ます。しかし、スタートアップの場合、企業価値の評価が売り手・買い手で乖離しやすく、将来の成長性を加味した「アーンアウト(Earn-out)」を取り入れるケースが多いです。
基本合意契約のポイント
- アーンアウト条件の大枠
売り手創業者が一定期間会社に残って業績目標を達成することで追加対価を支払う仕組みを、基本合意の段階で合意しておく。 - 主要従業員のリテンション策
キーパーソンが退職すると企業価値が大きく毀損する場合があるため、退職制限やインセンティブプランを設定する。 - VCや投資家の同意
スタートアップには複数の株主が存在し、株主間契約(SHA:Shareholders’ Agreement)もあるため、それらとの整合性を図る必要がある。
7.3 事例3:大型クロスボーダーM&Aと基本合意契約
大手企業同士のクロスボーダーM&Aでは、基本合意契約の段階から壮大な調整が必要になります。たとえば、EU圏内でのM&AではEU競争法の審査が入ることもありますし、アメリカ側ではCFIUS(対米外国投資委員会)の承認が必要になる場合もあります。こうした公的規制が絡む場合、基本合意書に「各種許認可取得が前提条件」である旨を明記 することが多いです。
基本合意契約のポイント
- 多国籍体制でのデューデリジェンス計画
各国の法律事務所や会計事務所をコーディネートするため、スケジュール管理が複雑化する。 - 為替リスクの考慮
クロージングまでに為替レートが大きく変動すると対価計算に影響を及ぼすため、ヘッジ手段を検討する。 - 反トラスト法・競争法リスク
当局の承認が得られない場合の対処方法や、最終契約締結の前提条件としての定義を明確化する。
第8章:基本合意契約に関連する法律・ガイドライン
8.1 会社法(日本)
日本でのM&A取引では、基本合意契約そのものは直接的に会社法(会社法第2編合併等)によって規定されるものではありません。しかし、最終的な合併や株式譲渡、事業譲渡などの取引形態には会社法上の規制や手続きが適用される ため、その前提となる基本合意契約でも会社法上の重要事項を踏まえた条項が設計されることがあります。たとえば、株主総会決議の要否などを「Closing条件」として定めるケースです。
8.2 金融商品取引法(日本)
上場会社を対象とするM&Aであれば、インサイダー取引規制 や大量保有報告制度(5%ルール) など、金融商品取引法上の規制も踏まえる必要があります。基本合意締結によって株価に影響が及ぶ場合、適切なタイミングで開示が求められることもあります。
また、上場会社の買収におけるTOB(株式公開買付)を伴う場合は、金融商品取引法のTOB規制やフェアディスクロージャーなどに遵守する義務があります。よって、基本合意契約で「TOBを前提とする」旨や「TOB成立をClosing条件とする」旨を記載することもあるでしょう。
8.3 独占禁止法・競争法
大規模なM&Aや業界再編にかかわるM&Aでは、独占禁止法(公正取引委員会の企業結合審査) や、海外であればEU競争法や各国競争法の審査を受ける必要が出てきます。したがって、
- 届出義務の有無とスケジュール
- 審査の結果、是正措置(事業の一部売却等)を求められる可能性
- 審査が長引いた場合のスケジュール延長リスク
などを織り込んだ上で基本合意契約を締結し、最終契約書にも関係条項を入れ込む必要があります。
8.4 その他関連ガイドライン
- 経済産業省「事業再編の手引き」
中小企業の事業承継や事業再編に関するガイドライン - 東京弁護士会などの「M&Aにおける弁護士業務の指針」
弁護士がM&Aをサポートする際の実務的指針 - FA(ファイナンシャルアドバイザー)の業務指針
M&A仲介・アドバイザリー業者の業務プロセスや利益相反管理に関する指針
こうしたガイドラインを参考にすることで、基本合意契約を含むM&Aプロセスの適正性を高めることができます。
第9章:まとめと今後の展望
9.1 基本合意契約の重要性
M&Aにおける基本合意契約(LOI)は、最終契約へと至る重要な「中継点」 です。企業間の大型取引では、両者が交渉に多大な時間・コストを投入するため、「一定の方向性を文書化し、相互にコミットすること」が不可欠となります。特に、日本のビジネス慣行では、口頭だけで進めるよりもしっかりと文書化しておくことで後々のトラブルを回避できるメリットが大きいです。
9.2 留意すべきポイント
- Binding / Non-binding の整理
どの条項を法的拘束力あるものとし、どの条項を将来的な協議事項にとどめるのかを明確にする。 - 排他交渉義務や秘密保持義務の重要性
違反した場合のリスクは大きいので、実効性とバランスをよく検討する。 - デューデリジェンスの前提条件
情報提供範囲やスケジュール感を整理し、両者の期待値を合わせておく。 - 海外規制や外為法、独占禁止法などの法規制対応
クロスボーダーM&Aや大規模M&Aでは、各種規制を念頭に置いてスケジュールと条件を設計する。 - 不当破談・不誠実交渉のリスク
「基本合意だから問題ない」と考えず、誠実に情報交換と協議を行う。
9.3 今後の展望
グローバル経済の進展やコロナ禍後の経済回復を背景に、企業はさらなる成長機会を求めて積極的なM&A戦略を検討する可能性が高い と考えられます。また、国内では少子高齢化による事業承継ニーズの高まりやスタートアップの活況もあり、中小企業やベンチャー企業の買収が増えると予想されます。
その中で、基本合意契約はますます重要性を増していく と言えるでしょう。オンラインでのデューデリジェンスやバーチャルデータルーム(VDR)の利用が一般化し、国境を越えたやりとりが容易になる一方で、契約トラブルのリスクも広範化します。企業としては、基本合意契約の段階から専門家や法律・会計の知見を十分に取り入れ、リスク管理をしながらスピード感のある交渉を行う体制整備が求められる でしょう。
結び
本稿では、M&Aにおける基本合意契約(LOI)の概要、構成要素、法的拘束力、実務上の注意点などを詳説しました。基本合意契約は**「最終契約に先行する大枠の合意文書」** という位置づけでありながら、秘密保持義務や排他交渉義務など重要な条項には法的拘束力が生じる点を忘れてはなりません。また、取引の性質や当事者の意図、業界慣行、国内外の法規制などを総合的に踏まえ、交渉とリスク管理を進めることが極めて重要です。
これからM&Aを検討する企業にとっては、基本合意契約の意義・役割を正しく理解し、専門家の助言を得ながら適切なプロセスを踏むことが、成功への第一歩となるでしょう。特にクロスボーダーや大型案件においては、早い段階から法務・会計・税務の専門家のみならず、各国の規制当局への届出や許認可プロセスにも注意し、スケジュールと戦略をしっかりと立てることが肝要です。
企業の成長戦略や事業承継、技術獲得、新規事業展開など、多様な目的を実現する手段としてのM&Aが増加するなか、基本合意契約がその成否を左右する重要なステップであることを改めて強調して、本稿を締めくくります。
株式会社M&A Do 代表取締役
M&Aシニアエキスパート・相続診断士
東京都昭島市出身。慶應義塾大学理工学部を卒業後、大手M&A仲介会社にて勤務し、その後独立。これまで製造業・工事業を中心に友好的なM&Aを支援。また父親が精密板金加工業、祖父が蕎麦屋、叔父が歯科クリニックを経営し、現在は父親の精密板金加工業にも社外取締役として従事。