- 【はじめに】
- 【第1章:切削工具業界の概観とM&Aが活発化している背景】
- 【第2章:切削工具業界におけるM&A事例】
- 2-1. 富士精工<6142>によるタイFSK子会社化(2014年2月19日発表)
- 2-2. 日本特殊陶業<5334>、NTKカッティングツールズ株式51%をオランダIMCに譲渡(2022年10月28日発表)
- 2-3. 日進工具<6157>、プラスチック製品製造の牧野工業子会社化(2011年2月2日発表)
- 2-4. 日本電産<6594>、EV戦略強化に向けて三菱重工工作機械を子会社化(2021年2月5日発表)
- 2-5. ユアサ商事<8074>、切削工具商社の中川金属を子会社化(2020年12月1日発表)
- 2-6. マルカキカイ<7594>、機械工具商社の北九金物工具を子会社化(2017年12月1日発表)
- 2-7. オーエスジー<6136>による海外M&A事例
- 2-8. Cominix<3173>による積極的なM&A事例
- 【第3章:M&Aの狙いとシナジーの具体例】
- 【第4章:M&A成功のポイントと課題】
- 【第5章:切削工具業界M&Aの今後の展望】
- 【まとめ・結び】
【はじめに】
切削工具業界は、自動車や航空機、工作機械、家電製品、医療機器など、幅広い分野のモノづくりを支える基盤的な存在です。金属や樹脂をはじめとする素材の切削、研削、穴あけ、ねじ立てなど、高度な加工技術が求められる現場において、切削工具は不可欠な要素といえます。そのため、高度な技術開発や厳格な品質管理、豊富な品揃えなどがメーカーや販売企業にとっては重要な競争力となってきました。
しかし、近年の製造業界では、グローバル化の進展、顧客ニーズの多様化、さらには生産拠点の海外移転や人件費上昇など、市場環境が大きく変化しています。また、IT技術の進歩にともなうスマートファクトリーの実現や、EV(電気自動車)・航空宇宙産業など、成長分野での新たな需要にも対応するため、切削工具メーカーや商社は、従来以上に規模拡大や技術力の強化が必要になってきています。
こうした背景のもと、切削工具業界ではM&A(合併・買収)の動きが活発化しています。大手企業が海外企業を買収して新興市場へ進出したり、中堅・中小企業が後継者問題や事業承継、資金力の確保といった課題を解決するために、大手商社やメーカーのグループ入りを検討したりと、その目的やスキームは多岐にわたります。本記事では、実際に報じられた事例を参考に、切削工具業界のM&Aがどのように進められ、どのような狙いや効果が期待されているのかを、できるだけ詳しく掘り下げて解説してまいります。
本記事は約20,000文字程度を目安に構成しており、以下の流れでお伝えします。
- 切削工具業界の概観とM&Aが活発化している背景
- 事例紹介(掲載されている企業・取引を中心に)
- M&Aの狙いとシナジー(競争力向上、海外展開、後継者問題、技術力・製品力の補完など)
- 成功と課題
- 今後の展望
それでは順を追って見ていきましょう。
【第1章:切削工具業界の概観とM&Aが活発化している背景】
1-1. 切削工具業界の特徴
切削工具業界は、日本を含む先進国のみならず、アジア新興国や欧米など世界各地の製造拠点で需要が存在する、極めてグローバルな産業です。切削工具は製造過程のコア技術を担い、多種多様な用途に対応しなければなりません。そのため、「高い品質・性能を求める顧客」「コスト重視の顧客」など、それぞれのニーズに合わせた幅広いラインナップが求められます。
特に日本製の切削工具は、精度や耐久性などで高い評価を得ており、自動車、航空機、エネルギー、電子機器など、ハイエンドな分野で多く採用されています。一方で、消耗部品としての特性もあり、競争が激しい市場でもあります。そのため、工具メーカーや専門商社は、拠点網を広げて供給体制を確保したり、同業他社の買収によって製品ラインアップや顧客基盤を強化したりと、競争力の向上を目指す動きが活発化しています。
1-2. 業界再編の背景
- グローバル化と海外生産拠点の拡充
自動車メーカーなど多くの製造業では、コスト競争力向上や新興市場開拓などを目的に、海外拠点を積極的に拡大してきました。それに合わせて切削工具メーカーや商社も、新興国に生産・販売拠点を置く必要が高まりました。しかし、海外拠点の設立や運営には大きな投資が必要になります。既存の企業が単独で拡大を図るにはリスクが大きいため、M&Aを通じて現地に生産拠点をもつ企業を買収したり、既存の合弁会社の持ち株比率を引き上げて子会社化したりする動きが出てきました。 - 技術の高度化・多様化
EVや航空宇宙、医療機器など、新たな成長分野ではより高精度かつ耐久性の高い切削工具が求められています。また、IT・IoT技術を活用したスマートファクトリーが普及することで、製造現場の自動化が進み、工具のデジタル管理や寿命管理など新たなサービスも需要が増えています。こうした変化に対応するために、研究開発力やサービスネットワークを強化しなければならず、大手資本や技術を取り込むM&Aが有力な選択肢となっています。 - 後継者問題と事業承継
中堅・中小の工具メーカーや商社では、創業者や経営者の高齢化にともなう後継者問題が深刻化しています。優良企業であっても、後継者が不在で事業継続が難しくなるケースも少なくありません。そこで、大手企業や上場企業がこうした企業の株式を取得し、グループ化することで事業承継を図る動きが増えています。 - 競争激化による再編圧力
切削工具の世界市場は、欧米や日本に限らず、中国、インド、東南アジアなどでも新規参入が相次ぎ、グローバル規模で競争が激化しています。製品価格の低下や品質向上の要求が強まるなか、企業単体での生き残りが難しくなり、業界再編が促進されています。
以上のような背景が絡み合い、切削工具業界ではM&Aが一種の戦略的手段として積極的に活用されてきました。続く章では、具体的な事例を紐解きながら、その実態を見ていきます。
【第2章:切削工具業界におけるM&A事例】
ここでは、実際に報じられているM&A事例を中心に、その内容や背景、狙いなどを整理していきます。とりわけ日本企業の動きが中心となりますが、海外大手との提携や買収も含め、多彩な事例が存在していることがわかります。
2-1. 富士精工<6142>によるタイFSK子会社化(2014年2月19日発表)
概要
- 対象企業:FSK(THAILAND)CO.,LTD.
- 売上高:約10億3000万円
- 営業利益:△1億1500万円
- 純資産:14億4000万円
- 取得株式:15.92%追加取得(既存の35.08% → 51%)
- 取得価額:約2億3000万円
- 取得予定日:2014年3月28日
狙いと効果
富士精工はASEAN地域への事業展開を強化するために、タイのFSKを子会社化しました。当時から東南アジアは自動車産業を中心に製造業の集積が進んでおり、切削工具メーカーとしても重要な市場と考えられました。同社はFSKを地域戦略の拠点として位置づけ、競争力強化を図っています。また、FSKは赤字(営業利益がマイナス)でしたが、富士精工の技術支援や資金注入で収益改善の余地があると判断したものと推測されます。
2-2. 日本特殊陶業<5334>、NTKカッティングツールズ株式51%をオランダIMCに譲渡(2022年10月28日発表)
概要
- 対象企業:NTKカッティングツールズ(愛知県小牧市)
- 売上高:72億2000万円
- 営業利益:4億8500万円
- 純資産:20億円
- 株式譲渡先:オランダIMC International Metalworking Companies B.V.
- 日本特殊陶業の出資比率:100% → 49%(IMCが51%取得)
- 譲渡価額:非公表
- 譲渡予定日:2023年4月3日
狙いと効果
日本特殊陶業は、セラミック工具の販売からスタートして機械工具事業を拡大してきました。今回の株式譲渡により、IMCグループの調達網や商品群を活用できるようになる点が大きなメリットです。グローバル競争が激化するなか、オランダの大手企業との合弁体制に移行することで、規模の経済や技術交流によるシナジーを狙っています。また、IMC側も日本市場や高い製造技術を取り込めることから、お互いの利点を生かしたパートナーシップになるとみられます。
2-3. 日進工具<6157>、プラスチック製品製造の牧野工業子会社化(2011年2月2日発表)
概要
- 対象企業:牧野工業(千葉県松戸市)
- 売上高:3億8800万円
- 営業利益:3400万円
- 純資産:1億8500万円
- 取得株式:全株式取得
- 取得価額:算定中(非公表)
- 取得予定日:2011年4月1日
狙いと効果
日進工具はエンドミルなど切削工具が主力製品ですが、プラスチック金型やプラスチック成形に強みを持つ牧野工業を子会社化することで、金型製造から成形加工までの知見を取り込みたいという狙いがありました。切削工具メーカーが金型や成形のノウハウを直接獲得することで、工具開発における現場ニーズの把握が容易になり、高付加価値な製品開発が可能になると考えられます。
2-4. 日本電産<6594>、EV戦略強化に向けて三菱重工工作機械を子会社化(2021年2月5日発表)
概要
- 対象企業:三菱重工工作機械(滋賀県栗東市)
- 親会社:三菱重工業
- 売上高:2020年3月期で403億円、2021年3月期見込み231億円
- 買収金額:非公表
- 買収完了予定:2021年5月 → 2021年8月2日付で完了と発表
狙いと効果
日本電産はEV用駆動モーターシステムの開発・生産を戦略事業と位置づけており、その中核部品であるギアの内製化や生産技術の強化が不可欠でした。そこで、工作機械や切削工具の製造に実績がある三菱重工工作機械をグループに取り込み、歯車加工技術を自社のモーター事業に生かす計画です。自社で工作機械を保有するメリットは大きく、試作から量産まで一貫した管理体制を構築できるとともに、開発スピードやコスト競争力を高めることが期待されます。
2-5. ユアサ商事<8074>、切削工具商社の中川金属を子会社化(2020年12月1日発表)
概要
- 対象企業:中川金属(東京都千代田区)
- 売上高:47億円
- 取得株式:全株式取得
- 取得日:2020年12月1日
- 取得価額:非公表
狙いと効果
ユアサ商事は、機械工具販売事業を産業機器部門の中核と位置づけていますが、全国に11拠点を持つ中川金属を傘下に収めることで販売網を一層強化できると考えられます。中川金属は84年の歴史を持ち、切削工具をはじめ各種工具の商社として定評があります。ユアサ商事はこうしたノウハウや顧客基盤を取り込み、自社のサービスや製品展開を強化し、幅広い顧客対応を可能にしています。
2-6. マルカキカイ<7594>、機械工具商社の北九金物工具を子会社化(2017年12月1日発表)
概要
- 対象企業:北九金物工具(北九州市)
- 売上高:6億8400万円
- 営業利益:1060万円
- 純資産:5億5800万円
- 取得株式:全株式取得
- 取得日:2017年12月1日
- 取得価額:非公表
狙いと効果
北九金物工具は1977年設立で、福岡県地盤に機械工具・切削工具の販売を行ってきました。マルカキカイは九州北部の自動車・自動車部品メーカーへの営業基盤を拡大する狙いがあり、さらに山口県への展開も視野に入れています。地域密着型の企業をM&Aで取り込むことで、営業ネットワークを効率的に拡充する戦略といえます。
2-7. オーエスジー<6136>による海外M&A事例
オーエスジーは切削工具大手の一角であり、国内外で積極的なM&Aを行ってきました。以下に挙げるように、海外企業との取引事例が豊富に存在します。
- 精密切削工具メーカー米Amamco Tool & Supply買収(2016年4月7日発表)
- 対象企業:Amamco Tool & Supply Co., Inc.(米国)
- 1972年設立、主に大手航空機メーカーに供給実績
- 取得株式:全株式
- 取得日:2016年3月31日
- 取得価額:非公表
- 狙い:米国市場、特に航空機関連産業向けの販売拡大
- スイスIMU DIESから転造工具製造・販売事業を取得(2016年4月7日発表)
- 対象:IMU DIES, SA(スイス)の転造工具事業
- 取得日:非公表
- 取得価額:非公表
- 狙い:穴加工切削工具分野の世界トップを目指す戦略の一環
- オランダの切削工具販売会社MAC WORLD TRADE B.V.子会社化(2008年10月2日発表)
- 対象企業:MAC WORLD TRADE B.V.(オランダ)
- 売上高:約7億4100万円、営業利益約8000万円
- 取得株式:全株式
- 取得価額:約3億9000万円
- 取得日:2008年10月1日
- 狙い:欧州における販売拠点確保とシェア拡大
オーエスジーは、日本国内だけでなく、米国、欧州、さらにはスイスやアジアなど多岐にわたる地域へ事業を拡大し、航空機や自動車など各市場の需要に対応した高度な切削工具を展開しています。海外企業を買収・子会社化することで、それぞれの地域の拠点や営業ルートを効率的に獲得し、グローバルネットワークを築き上げています。
2-8. Cominix<3173>による積極的なM&A事例
Cominixは、切削工具や耐摩工具、光学製品などの総合商社として、近年非常に活発にM&A戦略を推進しています。後継者不在の地場企業や海外展開の余地がある企業を次々と傘下に収め、成長ドライバーとしています。
- 切削工具製造・販売の川野辺製作所を子会社化(2020年12月15日発表)
- 対象企業:川野辺製作所(東京都大田区)
- 売上高:7億8200万円、営業利益2700万円、純資産5億2500万円
- 取得株式:85.8%
- 取得日:2020年12月15日
- 狙い:製造機能を取り込み、特に米国拠点をもつ川野辺製作所の北米顧客網を生かす
- 切削工具商社の東新商会を子会社化(2020年8月21日発表)
- 対象企業:東新商会(東京都港区)
- 売上高:14億5800万円、営業利益4100万円、純資産4億7500万円
- 取得株式:98.1%
- 取得日:2020年8月21日
- 狙い:東京~北関東エリアの顧客基盤拡充
- 切削工具卸売の澤永商会を子会社化(2020年9月18日発表)
- 対象企業:澤永商会(福岡市)
- 売上高:3億4300万円、営業利益1000万円、純資産1億4700万円
- 取得株式:全株式
- 取得予定日:2020年9月25日
- 狙い:九州エリアの販売網強化と後継者問題の解決
- 切削工具・油圧機器販売の大西機工を子会社化(2020年3月2日発表)
- 対象企業:大西機工(大阪府東大阪市)
- 売上高:10億9000万円、営業利益△1500万円、純資産4億500万円
- 取得株式:68% → 同日に自己株式取得で最終的に100%
- 取得日:2020年2月27日
- 狙い:大手企業へのネットワーク活用、切削工具事業の業容拡大
- 機械工具商社のKamogawaHDを子会社化(2024年11月21日発表)
- 対象企業:KamogawaHD(京都市)
- 売上高:103億円、営業利益3億2000万円、純資産24億1000万円
- 取得株式:全株式
- 取得予定日:2024年12月24日
- 取得価額:43億2900万円
- 狙い:生産財総合卸事業や自社ブランド製品(測定器、ろ過機など)、工具再研磨等リノベート事業とのシナジー創出、DXや拠点・物流網の共有によるコスト削減
- 機械・工具総合卸の広州加茂川国際貿易を子会社化(2021年9月30日発表)
- 対象企業:広州加茂川国際貿易有限公司(中国広州市)
- 売上高:5億8300万円、営業利益△1120万円、純資産8330万円
- 取得株式:全持ち分
- 取得予定:2021年11月中旬 → 12月22日付で取得完了
- 狙い:中国市場での切削工具事業拡大、現地商流の強化
これらの事例からわかるように、Cominixは国内外の中小~中堅企業を積極的に買収しており、製造機能や地域特化の販売機能、海外拠点など、多彩なアセットを取り込んでいます。特に事業承継問題や経営のグローバル対応で悩む企業との協業を得意としており、この方法は規模拡大と市場確保に加え、相互の強みを取り込む点でも大きな効果を期待できます。
【第3章:M&Aの狙いとシナジーの具体例】
これまで見てきた事例を整理すると、切削工具業界のM&Aには以下のような狙いが明確に認められます。
3-1. 海外進出・グローバル展開の加速
切削工具需要は、顧客である自動車・航空機メーカーの生産拠点やサプライチェーンに依存します。そのため、新興国や海外市場で生産拠点が拡大していく流れに合わせて、切削工具メーカー・商社も現地で販売・製造ネットワークを整備する必要が出てきます。現地企業を買収することで、すぐに販売ルートや工場、熟練人材を確保できるメリットがあり、時間やコストの大幅な削減につながります。
3-2. 新技術・製品ラインアップの強化
M&Aによって先進的な加工技術や特殊な素材に強みを持つ企業を取り込むケースは多く見られます。例えば、航空機や医療機器向け切削工具は高い精度や特殊材料への対応が求められますが、こうした特殊技術をもつ企業を傘下に収めることで自社の製品ラインナップを拡張でき、高付加価値分野での競争力を高めることができます。
3-3. 販売・サービス網の拡充
切削工具はアフターサービスや再研磨、交換サイクルのフォローアップなど、付随的なサービス体制が重要です。地域密着型の商社や再研磨事業を営む企業と一緒になることで、ユーザーとの接点を強化し、囲い込みによるリピート需要を確保できます。特に大規模商社や総合卸企業が地場の工具商社を買収する例は、営業力を強化する手段としても有効です。
3-4. 事業承継・後継者問題の解決
優良な地場企業であっても、後継者がいない、あるいはグローバル化に対応するための資金・人材が確保できないといった課題に直面する場合が少なくありません。大手企業や成長意欲のある中堅企業がM&Aでこうした課題を解決し、両社にとってWin-Winの関係を構築する動きが増えています。
3-5. 規模の経済・コストダウン
切削工具は、素材・加工技術・開発力など、多くの要素が絡むため、生産規模が拡大すればコスト優位性が高まる傾向にあります。また、原材料の一括購買や物流統合などによる経費削減、設備投資の効率化も期待できます。M&Aはそうしたスケールメリットを得る有力な手段です。
【第4章:M&A成功のポイントと課題】
4-1. ポストM&A統合(PMI)の重要性
M&Aは買収や株式取得そのものがゴールではなく、買収後の統合(PMI)段階でどのようにシナジーを生み出すかが成否を分けます。特に切削工具業界の場合、以下のような具体的統合項目があります。
- 製品ラインアップ統合:重複分野や相補分野の明確化、ブランド戦略の再整理
- 販売チャネル統合:顧客リストの共有、営業担当者の再配置や研修
- 技術・ノウハウ共有:製品開発・製造現場の交流、設計データや生産管理システムの統合
- 経営文化・組織風土の調和:日本企業と海外企業の文化的相違への配慮、組織再編
PMIが円滑に進まないと、期待した相乗効果が得られず、むしろ業績悪化や人材流出を招くリスクもあります。
4-2. 価格評価・デューデリジェンスの難しさ
切削工具のようにノウハウやブランド力が重視される業界では、企業価値を数値化することが容易ではありません。特に中小企業では決算書に表れない技術力や顧客との信頼関係などが大きな価値を生む場合があります。買収側は丁寧なデューデリジェンスを行う必要があり、逆に売り手企業も、自社の強みを正しくアピールしないと、適正な評価を得られない可能性があります。
4-3. グローバル規模のコンプライアンス対応
海外企業とのM&Aや海外拠点の統合では、現地法令や国際規制への対応が不可欠です。特に輸出管理や関税、環境規制など、業界特有の制約もあります。さらに労働法や税制、M&A手続きに関する制度も国ごとに異なるため、専門家の助言や現地スタッフの協力が欠かせません。
4-4. 人材育成・確保
M&Aで拠点や事業が拡大すると、それを支える人材確保が大きな課題となります。技術者や営業担当、管理部門など幅広い人材が必要ですが、特に先端技術を扱う切削工具業界では、熟練者や経験者の確保が困難な場合があります。買収後の組織再編で人材が流出しないよう、待遇やキャリアパスの整備にも配慮が必要です。
【第5章:切削工具業界M&Aの今後の展望】
切削工具業界のM&Aは、今後も以下のような方向で進展すると予想されます。
5-1. EV・航空機・医療など成長分野への対応強化
自動車の電動化は世界的な潮流となっており、駆動系の構造変化にともなう新たな切削ニーズが生まれています。また、航空機産業は景気に左右される面があるものの、長期的に見ればグローバル旅客需要の増大や次世代機への置き換え需要が期待されます。医療機器や半導体関連設備なども高精度加工の要求が厳しい市場です。これら成長分野でのポジションを確保するために、大手だけでなく中堅企業もM&Aを通じて技術と顧客基盤を取得しようとする動きが活発化するでしょう。
5-2. DXやスマートファクトリー対応の加速
製造業におけるDX(デジタルトランスフォーメーション)は、工作機械と切削工具のデータ連携や、工具摩耗のモニタリング、加工条件の自動最適化など、様々な可能性をもたらします。こうしたデジタル技術を開発・運用できる企業や、ソフトウェア面に強みをもつ企業とのM&Aや資本業務提携が進むと考えられます。切削工具自体がIoT連携を想定したチップやセンサーを搭載する例も今後増える可能性があるため、その技術基盤を持つ企業を買収する動きも見られるかもしれません。
5-3. 地域の垣根を越えた再編
切削工具業界は、欧米の大手メーカー、アジア勢、そして日本企業などが入り乱れるグローバル競争の様相を呈しています。大手企業同士による世界的な合併や、アジア圏を中心にした統合など、地域の垣根を越えた大規模再編が起きる可能性も否定できません。また、日本企業が欧米や中国の有力企業を買収する逆パターンもあり得ます。特に市場が成熟しつつある先進国では、今後さらなる寡占化が進む可能性があります。
5-4. 中堅・中小企業の事業承継M&Aの増加
日本国内の中堅・中小企業では、今後も後継者不在による事業承継の問題が深刻化すると予想されています。切削工具や工作機械関連の分野は地域密着型の企業が多く、優良顧客や技術を持ちながら事業継続に不安を抱えるケースが少なくありません。大手商社や同業他社がこうした企業を買収してネットワークを拡充し、協力体制を築く流れは今後も増えていくでしょう。
5-5. サステナビリティとリサイクルの視点
グローバルではCO2排出削減や資源効率化が重要課題となっており、切削工具業界でもより環境負荷の少ない生産体制や、再研磨や再コーティングによるツールの長寿命化、リサイクル材の活用などが求められています。これらの技術を有する企業とのM&Aや資本提携を通じて、持続可能な製造体制を構築するケースが増える可能性があります。環境対応をアピールすることは、顧客企業との取引拡大にもつながります。
【まとめ・結び】
切削工具業界におけるM&Aの動向を振り返ると、グローバル競争の激化と製造業の構造変化、そして事業承継の課題など、多様な要因が絡み合っていることがわかります。自動車や航空機などの主要産業が世界規模で再編されているなか、工具メーカーや商社も、その変化の波に合わせて柔軟な戦略を取らなければ生き残ることは難しくなっています。
M&Aは、技術力や販売網を一気に強化し、時間を買うための有効な手段であり、また後継者不在といった経営課題を解消する選択肢でもあります。しかし一方で、企業文化や技術の統合、PMIにおける相乗効果の創出は容易ではなく、買い手・売り手双方に細心の注意と戦略的な準備が求められます。今後は、EVやスマートファクトリーの普及、DX対応、環境負荷削減など、切削工具業界を取り巻く要件はさらに高度化・複雑化していくことでしょう。そのため、さらなるM&Aや業務提携が続き、業界内での再編がより一層進行すると考えられます。
日本の切削工具業界は、精密加工技術や品質管理能力の高さで海外からも評価されています。こうした強みを維持・発展させるには、単独の企業努力だけでは追いつかない時代に差し掛かっているともいえます。そこにM&Aの意義が増しているのです。大手企業はもちろん、中堅・中小企業にとっても、M&Aはもはや特別なものではなく、日常的な経営手段として認識されるようになってきました。
業界内の成長企業が、後継者問題に悩む老舗企業を買収して地域に根付いた技術と顧客基盤を守り、それをグローバル展開につなげるパターンは今後さらに注目されるでしょう。あるいは、海外の先進技術を有する中小企業を取り込んで新しいサービスを展開したり、大手メーカーや投資ファンドが主導して複数企業を一体化させ、新たなプラットフォームを生み出す動きも想定されます。
切削工具は、モノづくりに欠かせない「縁の下の力持ち」です。その力をいかに強化し、持続的に拡大していくかが、製造業全体の競争力を高めるための鍵ともなります。国内外を問わず、M&Aを通じて新たな成長機会を模索する企業の動向に、今後もますます注目が集まることになるでしょう。

株式会社M&A Do 代表取締役
M&Aシニアエキスパート・相続診断士
東京都昭島市出身。慶應義塾大学理工学部を卒業後、大手M&A仲介会社にて勤務し、その後独立。これまで製造業・工事業を中心に友好的なM&Aを支援。また父親が精密板金加工業、祖父が蕎麦屋、叔父が歯科クリニックを経営し、現在は父親の精密板金加工業にも社外取締役として従事。