第1章:半導体業界におけるM&Aの背景

1.1 半導体産業の重要性と競争の激化

半導体は、コンピュータやスマートフォン、家電、産業用ロボット、自動車の電子制御システム、通信インフラなど、あらゆる電子機器にとって中核となる部品です。現代社会において半導体抜きでは経済活動が成り立たないと言っても過言ではなく、その需要は年々増加しています。

しかし、この巨大な需要に支えられた半導体産業は同時に、技術革新のスピードが非常に速いという特徴を持っています。微細化技術の進歩や、新しいデバイスアーキテクチャの登場などによって優位性が大きく変わる可能性があるため、業界内での競争は非常に激化しています。そうした中で、生き残りと成長を求める企業が、必要な技術・顧客基盤・生産能力を手っ取り早く確保するためにM&Aを活用するケースが増えているのです。

1.2 なぜM&Aが盛んになるのか

半導体業界でM&Aが盛んになる主な要因は以下のとおりです。

  1. 開発コストの高騰
    半導体の微細化が進む中で、次世代プロセス技術の研究開発には膨大な費用と時間が必要になります。たとえば、最新の5nmプロセスや3nmプロセスの開発には数十億ドル規模の投資が必要とされ、少数の企業しか参入できない状況です。このため、企業が単独で開発投資を行うことが困難になり、M&Aによって開発リソースを共有しようとする動きが活発化しているのです。
  2. グローバル競争の激化
    半導体産業はグローバル市場での競争が激しく、中国・台湾・韓国・米国・欧州など世界各国で主要プレイヤーがしのぎを削っています。欧米企業は基礎研究や先端技術で優位性を持ち、アジア圏企業は生産能力とコスト面での強みを持っており、それぞれが世界市場を狙っています。こうした激しい競争のなかで、M&Aはシェア拡大や技術獲得のための強力な手段となっています。
  3. サプライチェーンの複雑化とリスク管理
    半導体のサプライチェーンは極めて複雑で、複数の国や企業をまたいで部材の調達や製造が行われています。そのため、地政学リスクや物流の混乱、自然災害など、さまざまなリスク要因によって供給が滞る可能性が指摘されています。M&Aによって垂直統合を進める企業や、部材調達や製造拠点を増やす企業が増えており、リスクを分散する目的もM&A活性化の一因となっています。
  4. 新分野や成長分野への進出
    AIや自動運転、IoT、5G/6G通信など、新たな半導体需要を生み出す分野が次々に登場しています。既存ビジネスのみならず、将来の成長エンジンとなりうる新分野への進出に際しては、自社開発よりもM&Aにより先端技術や人材を一気に獲得しようとする動きが盛んです。

第2章:半導体業界における歴史的M&Aの振り返り

2.1 かつての業界再編の流れ

半導体業界では、歴史的にいくつかの大きな再編が起きてきました。たとえば、1980〜1990年代には日米貿易摩擦や日本企業の半導体分野での躍進があり、米国企業は競争力維持のために様々なM&Aを実行してきました。一方、日本企業も海外企業とのアライアンスや買収を通してグローバルでのプレゼンスを高めようとしました。

この時期には、マイクロプロセッサ分野でIntel、パソコン向けCPU分野でAMD、DRAM分野で韓国勢や日本企業が存在感を示し始めるなど、徐々に半導体業界の勢力図が変化していきました。M&Aはあくまで手段のひとつでしたが、半導体分野での急激な技術進歩と市場変化に伴い、業界再編のペースも早まっていきました。

2.2 21世紀に入ってからの大型M&A

21世紀に入ると、インターネットの普及やモバイル革命、ソーシャルメディアの台頭などを背景に、データセンターや通信分野での半導体需要が急伸しました。それに伴って、より高度な技術や幅広い製品ラインナップを求めるために、大型M&Aが繰り返されるようになりました。

(1) AvagoによるBroadcom買収(2015年)

シンガポールを拠点とするAvago Technologiesが、通信分野やネットワーク関連半導体の大手であるBroadcomを約370億ドル(当時)で買収した案件は、半導体業界史上でも特筆すべき大型M&Aのひとつです。後に社名は「Broadcom」に統一されましたが、AvagoとBroadcomの技術・製品ラインナップを統合することで、通信・ネットワーク分野での圧倒的な市場支配力を得ることに成功しました。

(2) QualcommによるNXP Semiconductorsの買収(未遂)

モバイル向けSoC(System-on-Chip)の分野で圧倒的な地位を持つ米Qualcommは、オランダのNXP Semiconductorsを約470億ドルで買収する計画を発表しました。NXPは自動車向け半導体やセキュリティ関連技術に強みがあり、Qualcommはこの買収によって車載半導体ビジネスを強化する狙いがありました。しかし、2018年、中国当局の許認可が下りなかったため、最終的には買収が成立せずに頓挫しました。地政学リスクがM&Aに影響を与える好例として知られています。

(3) IntelによるMobileye買収(2017年)

米Intelは自動運転やADAS(先進運転支援システム)向けの画像認識技術で有名なイスラエルのMobileyeを約153億ドルで買収しました。これによってIntelは自動車向けの半導体ビジネスや画像処理ソリューションのノウハウを一気に獲得し、自動運転分野での存在感を高めました。これも、成長著しい自動運転やAIの分野をめぐる企業のM&A戦略の一例となっています。

(4) AMDによるXilinx買収(2022年完了)

CPUやGPUで知られる米AMDは、FPGA(Field Programmable Gate Array)大手のXilinxを約350億ドルで買収すると発表し、2022年に取引が完了しました。XilinxのFPGA技術は、5G通信やデータセンター、AIアクセラレーションなど幅広い分野で活用が期待されており、AMDは従来のCPU・GPU分野に加えてプログラマブルロジック分野も取り込むことで、インテルやNVIDIAとの競合をさらに強化しようという狙いがあります。

(5) NVIDIAによるARM買収提案(2020年発表・2022年撤回)

グラフィックス分野で絶大な存在感を持つ米NVIDIAは、イギリスのCPU設計企業ARMを400億ドルで買収する計画を2020年に発表しました。ARMはスマートフォンや組込み分野で圧倒的シェアを持っており、NVIDIAがこれを取得することで、CPU/GPU/AIなど複合的なプラットフォームを構築できると期待されました。しかし各国の独禁当局や大手半導体企業からの強い反発を受け、最終的に2022年2月に買収計画を撤回しています。ARM買収は不調に終わりましたが、競合他社の猛反発など、半導体業界のM&Aがいかに政治・規制リスクの影響を受けやすいかを示す事例となりました。


第3章:主要プレイヤーとM&A動向

3.1 IDM(Integrated Device Manufacturer)勢

IDMは設計から製造まで一貫して自社で行う企業であり、世界的に見ても大きな投資力と技術力を持つケースが多いです。代表的なIDM企業としては、IntelやSamsung Electronics、Micron Technologyなどが挙げられます。IDM勢は自社の製造拠点を拡張したり、新技術の開発を推進したりするためにM&Aを活用することがあります。

  • Intel: CPU市場での支配力を確保しつつ、データセンターやIoT、自動車向けなど新分野への進出を図るために、Mobileyeなど多くの企業を買収してきました。また、2022年からはファウンドリー事業にも本格参入する意欲を見せており、買収や投資によって製造能力・技術力を強化しています。
  • Samsung Electronics: メモリ市場では世界トップクラスのシェアを誇り、ロジックファウンドリーでもTSMCを追随する巨大企業です。M&Aというよりは、自社投資による拡大が中心的ではありますが、必要に応じて海外企業との提携や部分的な買収を行うこともあります。
  • Micron Technology: 米国を代表するメモリベンダーであり、DRAMやNANDフラッシュなどを中心に展開しています。技術開発力の強化や特定分野でのシェア拡大を狙ってM&Aを行うことがあります。

3.2 ファウンドリー勢

IDMと対照的に、ファウンドリーは顧客企業から受託して半導体の製造を行う業態です。世界最大のファウンドリー企業であるTSMC(台湾積体電路製造)は、AppleやAMD、NVIDIAなど主要半導体企業からの受注を一手に引き受けています。TSMCのように圧倒的な技術力と生産能力で市場を席巻している企業は、M&Aを積極的に行う必要性が比較的低いという特徴があります。しかし、競合ファウンドリーのGlobalFoundriesやUMC、SMICなどは、技術獲得や顧客基盤強化のために、小規模な企業の買収を行う例が散見されます。

3.3 ファブレス勢

ファブレス企業は自社で工場を持たず、設計や開発に特化したビジネスモデルを採用している企業群を指します。たとえば、QualcommやNVIDIA、AMD(ただしかつてはIDMでしたが、現在は製造部門を切り離してファブレスへ移行)などが代表的です。ファブレス企業は製造投資の負担が比較的小さい代わりに、半導体設計技術やソフトウェアスタックなどの差別化要因が重要になります。そのため、必要な先端技術や特定分野での優位性を獲得するために、M&Aを活用して事業領域を拡大していく傾向が強いと言えます。

3.4 システムメーカーによる半導体企業の買収

最近では、AppleやGoogle、AmazonといったITプラットフォーマーが自前で半導体開発・設計を行う例が増えています。AppleはiPhoneやMac向けSoCを自社設計しており、Intelとの長年の協業を解消して、MacにはApple Silicon(Mシリーズ)を搭載しています。Googleもデータセンター向けAIチップ「TPU」を独自開発し、AmazonはAWSでのサーバ向けプロセッサ「Graviton」をARMベースで開発しています。
これらプラットフォーマーが自ら半導体設計会社を買収して内製化に乗り出す事例もあり、今後さらに増えていく可能性があります。たとえば、Googleはデータセンター向けの半導体スタートアップを買収し、人材や特許を取り込むことでクラウドサービスの優位性を強化する動きが見られます。


第4章:M&Aの狙いとメリット・デメリット

4.1 M&Aの狙い

  1. 技術獲得・知的財産の確保
    半導体業界における競争優位の源泉は先端プロセス技術や独自のIP(Intellectual Property)、特許です。企業はM&Aを通じて、これらの技術やノウハウ、人材を一気に獲得し、研究開発の時間とコストを大幅に節約することができます。
  2. 市場シェアの拡大
    既存の顧客基盤や販路を手に入れることで、短期間でシェアを拡大できます。特に、ある特定分野で強みをもつ企業を買収することで、新規市場の開拓をスムーズに行えるメリットがあります。
  3. 製品ラインナップの拡充・クロスセル
    製品ポートフォリオを拡充することで、より包括的なソリューションを顧客に提供できるようになります。買収先企業の製品を自社製品群と組み合わせて販売するクロスセル戦略を実行することで、売上高や利益率の向上が見込まれます。
  4. 生産能力・リソースの確保
    ファウンドリー業者やIDM企業にとっては、生産拠点や設備、人材を確保することがM&Aの重要な動機となる場合があります。サプライチェーンの脆弱性を低減するために、地理的分散や複数拠点の確保が求められることも背景の一つです。
  5. コストシナジーの創出
    企業を統合することで、開発費や営業費などの重複コストを削減できる可能性があります。また、大量仕入れによる部材コストの削減や、生産効率の向上など、経営効率を高めるシナジーが期待できます。

4.2 M&Aのメリット・デメリット

(1) メリット

  • 即時的な技術・人材獲得
    時間をかけて自社開発を行うよりも、買収を行うことで短期間に必要な技術や優秀な人材を獲得できます。市場の動きが速い半導体業界では、このスピード感が大きなアドバンテージとなります。
  • 市場参入や地理的拡大の加速
    買収によって、その企業が持つ顧客基盤や販売チャネルを利用し、地域や製品市場への参入が容易になります。特に新興国市場や、自社が弱い分野を早期にカバーするには効果的です。
  • ブランド力・信頼性の上乗せ
    業界内で一定の評価を得ている企業を買収することで、自社ブランドと買収先企業のブランドを相乗的に活用できます。顧客の信頼を得やすく、ビジネス拡大に貢献します。

(2) デメリット・リスク

  • 買収コストの高さ
    半導体企業のバリュエーションは高止まりしがちであり、大型案件では数十億〜数百億ドルという莫大な買収資金が必要となります。過大な買収金額は投資回収リスクを高めます。
  • 組織統合の難しさ
    半導体技術者や研究者は専門性が高く、企業文化や開発プロセスも企業ごとに異なります。買収後に組織統合やマネジメントが円滑に進まない場合、買収のシナジーを十分に発揮できない恐れがあります。
  • 独禁法や規制当局の審査リスク
    半導体産業は国家安全保障や産業競争力に直結するため、世界各国の独占禁止法や規制のハードルが高いです。買収計画が当局から却下されると、多大な時間的損失や信頼の低下を招きます。
  • 地政学リスク・対立
    米中対立をはじめとする地政学的リスクや輸出規制問題などが、M&A成立を大きく左右するケースが増えています。グローバルなサプライチェーンが複雑化しているため、特定の国との買収交渉が難航する場合もあります。

第5章:地域別に見るM&Aの特徴と規制

5.1 米国

米国は半導体設計や先端プロセス技術のリーダー国であり、多くのファブレス企業やIDMが本拠地を置いています。M&Aについては、米連邦取引委員会(FTC)や司法省などの監督当局が厳格に審査を行い、競争制限や国家安全保障の観点から判断されます。また、国防総省などとの兼ね合いで軍事転用が懸念される技術の場合、CFIUS(外国投資委員会)の審査も入ることがあります。

米国企業同士のM&Aは比較的スムーズに進むことが多いですが、国外企業が米国企業を買収する場合には国家安全保障上の問題として争点となることが少なくありません。また、買収先が中国企業の場合、米国政府の輸出管理規制の強化が影響するケースもあり、複雑な状況に陥る可能性が高まります。

5.2 欧州

欧州には、NXP Semiconductors(オランダ)やInfineon(ドイツ)、STMicroelectronics(フランス・イタリア合弁)などの大手半導体企業が存在します。欧州連合(EU)は半導体産業の戦略的価値を認識しており、域内でのM&Aに対しても厳しい独禁法審査を行います。さらに、半導体をめぐる産業政策として、EUは「European Chips Act」などで先端プロセスの育成や域内生産の拡大を図っています。

欧州企業が米国企業やアジア企業とM&Aを行う場合、EUや相手国の独占禁止法の許可を得る必要があり、さらに国家安全保障の要件も満たさなくてはならない場合があります。合意形成に時間がかかりやすく、一部の買収案件は政治的思惑によって左右されることもあるため、不確実性が高まります。

5.3 アジア

アジアでは中国や台湾、韓国、日本が半導体産業で大きな存在感を持っています。

  • 中国: 中国政府は「中国製造2025」や「半導体強化政策」などを掲げ、自国の半導体産業育成に莫大な資金を投入しています。海外企業の買収や自国スタートアップの育成を通じて、技術的なキャッチアップを狙っています。しかし、米国政府による輸出規制や投資規制が強化され、中国企業が海外企業を買収するハードルは非常に高くなっています。
  • 台湾: TSMCを筆頭に、ファウンドリーが中心の産業構造を築いてきました。台湾政府は世界トップクラスの半導体製造技術を守るため、外資による台湾企業の買収に厳しい姿勢を示しており、台湾本土への投資規制を独自に設けています。
  • 韓国: Samsung ElectronicsやSK hynixなど、メモリ分野で世界をリードする企業が存在します。海外企業を買収することで技術獲得や新分野進出を目指すケースもありますが、国内競争法や対外投資規制の影響を受ける場合もあります。
  • 日本: かつては世界トップクラスの半導体企業が多数存在しましたが、近年は再編や海外売却が進みました。ルネサスエレクトロニクスやソニー(イメージセンサー)など依然として強みを持つ分野はありますが、グローバル競争力を維持するために海外企業との提携・買収・統合などが行われています。

第6章:近年の半導体M&A注目トピック

6.1 自動車向け半導体のM&A

自動運転やADAS機能の高度化に伴い、自動車向け半導体の重要性が急速に高まっています。各社は車載向けマイコンやセンサー、電源制御半導体などを強化するため、自動車関連技術を持つ企業の買収を進めています。たとえば、IntelのMobileye買収や、ルネサスエレクトロニクスによるIntersilやIDTの買収などは、車載ビジネス強化の典型例といえます。

6.2 AI・データセンター関連のM&A

クラウドやビッグデータ、AIの進展によって、データセンター向けの高速演算半導体やAIアクセラレータの需要が拡大しています。NVIDIAがGPUを活用してAI分野を牽引しているように、従来のCPUやGPUだけでなく、FPGAや専用ASIC、IPU(Intelligence Processing Unit)といった新しいアーキテクチャも注目を集めています。
AMDによるXilinx買収はAI分野での競争力を高める好例ですし、IntelもHabana Labs(イスラエルのAIチップ企業)を買収してAI向け半導体を強化してきました。こうした動きは今後も続くと予想されます。

6.3 IoT・エッジ向け半導体のM&A

センサーや無線通信チップなどのIoT関連半導体市場は拡大傾向にあり、企業は小型化・低消費電力化されたソリューションを開発する必要に迫られています。IoT分野での知見を持つスタートアップや特定用途向けチップベンダーを買収して、製品ポートフォリオを充実させる動きが盛んです。
特に、エッジコンピューティング向けのAIアクセラレーターを手がける企業や、低消費電力MCU(マイクロコントローラ)を開発する企業が注目されており、大手半導体企業の買収ターゲットになりやすい分野となっています。

6.4 半導体製造装置・部材企業のM&A

半導体製造には微細化技術を支える製造装置や材料が欠かせません。EUV(極端紫外線)リソグラフィ装置の世界トップシェアを持つASML(オランダ)など、製造装置メーカーの地位は極めて重要です。近年は装置メーカー同士のM&Aは大規模ではないものの、特定工程に強みを持つベンチャーを買収する例や、部材メーカーの再編などが散発的に行われています。
また、先端プロセスで欠かせないフォトレジストや化学薬品、シリコンウェハなどの材料分野も重要度を増しており、ここでも小規模M&Aが増える傾向があります。


第7章:M&Aの成功要因と失敗要因

7.1 成功要因

  1. 経営戦略との整合性
    M&Aが自社の長期的な経営戦略やビジョンと合致していることが重要です。一時的なブームや短期的な思惑に流されず、自社のコア事業とのシナジーを明確に描ける案件ほど成功しやすい傾向にあります。
  2. 買収プロセスと統合計画の入念な準備
    デューデリジェンス(DD)段階でターゲット企業の経営や財務、技術、人材などを徹底的に調査し、ポスト・マージャー・インテグレーション(PMI)計画をしっかりと策定することが極めて重要です。M&Aの成立後も、文化や開発プロセスの違いを調整していくには時間と労力がかかるため、社内外のコミュニケーションを十分に行う必要があります。
  3. 人材の流出防止とモチベーション維持
    買収先企業の優秀な研究者や技術者が離職してしまうと、買収の最大の目的である技術やノウハウの獲得が台無しになりかねません。買収後も魅力的なキャリアパスや報酬制度を整備し、買収先の社員のモチベーションを高めることが大切です。
  4. 独自文化の尊重と透明性
    買収先企業は自社とは違った企業文化や開発スタイルを持っている場合があります。それらを尊重しつつ、統合後の組織体制や方針を透明性高く共有することで、社内混乱を最小限に抑えることができます。

7.2 失敗要因

  1. 過大評価による高額買収
    ターゲット企業を過大評価し、実際の価値以上に高額で買収してしまうケースがあります。買収後に想定したシナジーを十分に発揮できず、大幅な減損処理を余儀なくされることもあります。
  2. 規制当局の許可が得られない
    半導体業界のM&Aは独占禁止法や国家安全保障の観点から厳しく審査されます。特に複数国で事業を展開する企業の場合、各国の規制当局からの許可が必要となり、時間と手間がかかるうえに最終的に不認可となることもあります。NVIDIAによるARM買収が撤回されたのは、この典型的なパターンの一例です。
  3. PMI(買収後統合)の不備
    買収後の組織統合や事業運営方法の調整がうまくいかず、従業員間の対立やコミュニケーションの障害が発生する場合があります。また、技術的統合が難航して製品開発が遅延したり、品質問題が生じたりすると、市場からの評価も下がってしまいます。
  4. 人材の流出や競合への転職
    半導体業界では、技術者の移籍によって企業秘密やノウハウが漏洩する危険性があります。買収先社員が買収に不満を持ち、競合他社へ転職してしまう例は珍しくありません。結果として、M&Aで期待した技術的優位を失う可能性があります。

第8章:今後の展望とまとめ

8.1 今後も継続するM&Aの潮流

半導体業界は技術革新や市場ニーズの変化が非常に激しいため、企業が生き残り・成長を図るうえでM&Aは重要な戦略であり続けるでしょう。特に、以下の分野ではさらなる大型M&Aや戦略提携が起こりうると考えられます。

  • AI・データセンター向け高性能半導体
    ChatGPTのような大規模言語モデルや、高度な推論・学習を求めるAIニーズは今後も拡大することが予想されます。AI演算向けGPUやFPGA、ASICなどの企業が、さらに統合・再編される可能性があります。
  • 車載・自動運転分野
    完全自動運転の実現には、高度な半導体とセンサー技術が不可欠です。自動車メーカーやIT企業、半導体企業がタッグを組み、必要な技術を囲い込むためのM&Aが加速すると考えられます。
  • 5G/6G通信・IoT・エッジコンピューティング
    次世代通信技術を支える無線チップやエッジ向けデバイスの需要が増大します。大手企業はスタートアップの買収や研究開発投資を通じて、早期に市場を席巻しようとする動きを見せるでしょう。
  • 半導体製造装置・材料分野
    世界的な半導体不足や先端プロセス需要の高まりによって、製造装置や材料市場は拡大を続けています。大手装置メーカーが競合他社や有望ベンチャーを買収し、新技術を取り込む事例が増えると予想されます。

8.2 地政学リスクと規制の影響拡大

一方で、米中対立を筆頭とする地政学リスクや国家安全保障上の懸念、独占禁止法の厳格化といった要因によって、M&Aがスムーズに進まないケースも増加すると考えられます。世界各国が半導体の「国産化」や「自給自足」を推進する中で、外資による買収に対する規制や、技術流出を防ぐ法整備が加速する見込みです。
したがって、大型M&Aを行う際には、政治的な駆け引きや複雑な許認可プロセスをクリアする必要があり、企業はリスクマネジメントを徹底しなければなりません。

8.3 M&A以外の戦略的アプローチ

M&Aが半導体企業にとって重要な選択肢である一方、すべての事業課題に対してM&Aが最適解とは限りません。業界内ではアライアンスやジョイントベンチャー、ライセンス契約による協業など、さまざまな形態の提携も行われています。

  • 共同研究開発
    高額な研究開発投資リスクを分担するため、複数企業が共同で研究開発プロジェクトを立ち上げるケースがあります。特に次世代リソグラフィ技術や新素材研究などは企業単独では困難な場合が多く、オープンイノベーションの視点で他社と協力する意義が大きいです。
  • ライセンス契約による技術供与
    特許やIPをライセンスすることで、買収や統合のリスクを負わずに収益化を図る企業もあります。ARMのビジネスモデルが典型例であり、同社は自ら製造せず、CPUアーキテクチャをライセンスして世界中の企業からライセンスフィーを得ています。
  • 経営資本提携・少数株主化
    いきなり完全買収に踏み切らずに、まずは少数株主として出資し、技術や製品連携を深めたうえで将来的な合併・買収を検討する戦略も存在します。これにより大きなリスクや資金負担を抑え、柔軟な経営判断が可能になります。

8.4 まとめ

半導体産業は、グローバル化と技術革新の波を背景に、企業間競争が熾烈さを増しています。そこで各社はM&Aを戦略的に活用し、技術・製品ラインナップ・顧客基盤の強化を図ってきました。実際に過去10〜20年で、多くの企業が大型M&Aによって勢力を拡大し、業界の地図を塗り替えてきた歴史があります。

しかし同時に、M&Aには高いリスクや大きな資金負担が伴い、規制当局の介入や地政学リスクも無視できません。M&Aが成功するためには、買収先企業との相乗効果が確実に生まれるビジョンを明確にし、PMIを丁寧に実行することが不可欠です。

今後もAIや自動運転、IoT、先端通信技術などの需要が拡大する中で、半導体企業はさらなるM&Aや戦略提携によって事業を拡張していくと考えられます。一方で、国際情勢や独占禁止法の厳格化といった外部要因がM&Aの成否を左右するケースが増えることが予想されます。企業にとっては、リスクヘッジや規制対応に加えて、買収後の統合計画をいかに的確に実行し、買収前に描いたシナジーをいかに実現できるかが鍵を握ります。

半導体が「産業のコメ」と呼ばれるように、あらゆる電子機器に不可欠な存在であることは変わりません。そのため、今後も半導体業界はグローバル経済や技術革新の中心に位置し続けるでしょう。そして、M&Aはその進化を加速させる強力な手段であり続けるはずです。多くのプレイヤーが次の一手としてどのような買収や提携を打ち出してくるのか、引き続き注目が集まります。


主要参考文献・情報源

  • 各社IR資料 (Intel, AMD, NVIDIA, Qualcomm, Samsung, TSMC, Broadcom, ルネサスエレクトロニクス 等)
  • 各国の独占禁止法・国家安全保障に関する公表情報 (米国FTC, CFIUS, EU競争法 等)
  • 半導体業界専門メディア (EE Times, SEMI, DIGITIMES 等)